醤油といえば!銚子!その銚子の醤油を全国に。

田中家はもともと銚子在住の開発百姓の一人だったようです。祖先は戦国期の国府台の合戦に従事したと伝えられる。その後共同漁業共同方式などにより財を成した。
ヒゲタしょうゆの醸造を、下総銚子の地で始めたのは田中玄蕃(げんば)という人である。
 元和2年(1616年)、今から384年(2000年現在)も前のことである。元和2年といえば、大阪夏の陣の翌年、徳川家康が没し、江戸を中心に徳川三百年の時代がはじまろうという時代であった。
代々玄蕃を名乗るため第10代玄蕃貞矩などと名乗っていた。つまり一人ではないので話が複雑になる。 土地の有力者であった田中玄蕃は、西の宮の真宣九郎右衛門(さなぎくろうえもん)という人にすすめられて醤油を醸造するようになったと伝えられている。
 はじめは、大豆を主原料とした、「大極上々溜醤油」と称していたが、元禄時代に、第五代田中玄蕃が江戸の食味に合うように醸造法を改良(小麦の活用、米麹の利用など)して、現在の関東濃口しょうゆの基礎が出来上り、江戸庶民の食生活にヒゲタしょうゆが愛用されるようになった。幕末から明治年代にかけては事実上銚子を代表する名家になった。銚子では「様の付くのは観音様と玄蕃様」といわれるほどに・・・
海鹿島の開発に功があった田中玄蕃は、大阪の内国勧業博物館の会場から建物をひとつ移築。台湾物産を展示した建物だったものを、台湾館の名で呼ばれたレストランを。会社は営業不振のために、大正6年に解散したというが。
ヒゲタ醤油の社名は、ある日、田中玄蕃がヒゲの仙人の夢をみて、良質な水のありかを教えてもらったことが名前の由来という。
また、知っていましたか??
しかし12代以後、ヒゲタ醤油もその手を離れ、遂に銚子醤油合資会社の傘下になってしまった。銚子の玄蕃としての実質が失われた瞬間である。
あのヒゲタマークにある「上」の字を・・あれは
1864年(元治元年)、物価高に悩んだ幕府は、市場に値下げ令を発しました。しかし、ヒゲタを含む銚子と野田の7銘柄は「最上醤油」という名称とともに従来の価格で販売することが許されたのです。そのお墨付きが、マーク左上の「上」だそうです。ヤマサにもありますね。

肖像権などの関係もありそうなので写真はなしとします。



菩提寺は円福寺の一郭に明治時代に改葬。