きらっせネット歴史館


人類史上最悪の戦争・・第2次世界大戦。そのとき地域の状況は・・

第2次大戦を・・・また、戦争を知らない世代の私が資料を基に作っています。間違いがありましたら掲示板などで指摘していただけると助かります。ただし、その後の補追記は基本的には致しません。文中に現代では不適切な単語がありますが、歴史的資料としての単語であると、ご了承下さい。

さて、いつから「太平洋戦争」の始まりか、あの真珠湾攻撃の昭和16年として話を進めます。
昭和6年に満州事変が勃発し、日本を取り巻く環境の悪化が激しくなってきた昭和11年に銚子に下志津陸軍飛行学校銚子分教場は開校した。それまでにも大日本国防婦人会銚子支部の結成や防空演習、また防空監視地区になっていた銚子市は防空監視や燈火管制の訓練などが行われてはいたが、市民にそれほど大きな危機感は無かった。しかし、太平洋からの進入路になりやすい銚子市一帯はこの頃から防空上、重要視されてきた。そのような中、日本は昭和12年、日華事変が勃発し、対中全面戦争へ入る。日華事変勃発後は各市や町から、多く出征していった。干潟町にある『古城村誌』が記すところによると『古城村』だけでも30人近くの人が出征したそうである。7月に起きた日華事変で、わずかひと月後の8月15日には銚子市出身の最初の犠牲者が出た(銚子市史)翌年の昭和13年には国家総動員法、国民精神総動員運動など臨戦態勢も強化され、完全に戦時下となったようである。
昭和15年には海軍が防空監視部隊を銚子市犬吠アに常駐させるようになり、ここにきて「教育部隊」ではなく戦時任務を帯びた部隊が始めて常駐。当初は下士官2、兵3という少数部隊であった。
国は臨戦態勢の強化に努め、昭和16年生活必需物資統制法令を公布、銚子市でも翌17年には、1月に塩、2月には味噌醤油、そして11月には砂糖とマッチが配給制になる、その他、この年昭和17年に流行った言葉があの『欲しがりません、勝つまでは』。
太平洋戦争は昭和16年12月8日の真珠湾の奇襲に始まり、転機は昭和17年6月5日の『ミッドウェー海戦』だとよく言われる。私もそう思う一人です、物資が欠乏している私たち日本が巨大国家アメリカに敵対し、勝ちうるには早期和平講和が絶対の条件であり、当時の軍部内でも『資源確保』が最大の課題であった為、南方へ進行した、そんな中『航空機』での決戦が重要視されてきた今次大戦で映画『ミッドウェー』でも知られているように暗号の解読により、作戦目標がミッドウェーであることを察知され、また南雲司令長官の「爆装」→「雷装」への変更後の発艦作業中の飛行甲板に急降下爆撃・・「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の4空母を1海戦で失うという失敗を犯してしまう。

即ち、この頃から戦力の回復を図れない日本は敗戦への一途をたどることになる。

それまでは考えもしなかった『本土空襲』。それが現実のものとなった。昭和17年の本土初空襲も銚子の銚子防空監視隊が米軍機一機発見していることから当時最新の機器であった『電波警戒機乙』と称するレーダーを2基を愛宕山、犬吠近辺に設置する。これから本土防空の最前線の監視所に『銚子市』はなる。このレーダー部隊は秘匿名を『筑波隊』といい、本部は東京赤坂の東部第1792部隊であった。隊員はおよそ120人の中隊規模で兵舎は愛宕山に3舎設けられたようです。また、この年には海軍のレーダー基地も設置される。場所は郵政省の犬吠電波観測所あたりで、部隊員終戦時には200名にも膨らんでいた。
さらにレーダー部隊に続いて、昭和18年4月には銚子市三崎町に陸軍千葉防空学校銚子分校が開校し、その後に陸軍千葉高射学校銚子分校と改称された、学校の名の通りに高射砲の教育、訓練を行う陸軍学校で高射砲6門が備えられて、1個大隊およそ320人が常駐した。後の空襲時には何機かの敵艦載機を撃墜している。
本土防空の体制は実に貧弱ながら市民は確実に戦争の方向性を認識し始めていた頃である。
昭和19年、銚子市には特設警備隊第26中隊が設置される。これは郷土防衛隊と呼ばれ、平常時は民間人として業務に就き、召集の掛かったときだけ隊員とされ軍務につくという半官半民の体制である。
しかし、米国の技術、資材の豊富さは『精神』だけで覆せるものではなく高射砲の届かない高度1万メートルを悠々とB29が飛行して、空襲を続けていた。東庄町では神代地区にB29撃墜の記録もある。
銚子市の昭和20年(終戦の年)はなんと警戒警報376回、空襲警報は89回。又この年には艦載機の空襲も銚子市を襲う。制海権、制空権を完全に失った日本を象徴する敵機動部隊からの艦載機による空襲。飛行場中心の爆撃ではあったが、市街地にも爆撃はあった。
同じ頃、東庄町史によると1月31日頃は「空襲はほとんど毎日なり」とあり、7月4日には笹川駅、入正醤油へのP51よりの機銃掃射により笹川駅で殉職した17歳の女性もいた。

『市民の記録・銚子空襲』のなかで三軒町の中池はなさんは空襲をこう語っている「あたり一面は白霜、空はうす曇、中略、空は無数の小型機。まるでトンボの群集のようだ。私は壕の中であまりの恐ろしさに全身が震えてきた。ニュース映画では見るものの、現実にあったことのない自分だ。歯を食いしばって身を縮めながら覚悟した。」また2月25日の空襲を当時の銚子駅の駅員の田坂忠夫さんは「7時20分過ぎ警戒、間もなく空襲、あっという間に、はるかヒゲタ上空より、艦載機4機飛行場狙う。我初めて攻撃のありさまを見る、敵機関銃を撃つ、高射砲はなる。あっという間に敵1機みごとに落ちてはゆくが、銚子飛行場燃え上がる。銚子駅上空へも低空で8機ばかり来たが、何事もなかった。」と。
この同じ日に艦載機が退去して間もなく東京がB29の波状攻撃を受ける。その数およそ130機!
都内では2万戸の家屋が焼失、この頃になると戦力温存か、天候の為か日本の迎撃機は出撃していない。
干潟町の香取海軍航空基地ではその後度々、米軍機の空襲があった。干潟町史には当時戦争も末期に近づいた頃、米軍機がまいていった「ビラ」が載っています。それにはこう書いてあります。
『日本軍部指導者諸君、諸君は日本の国土、海域及び上空を防衛し得ると日本国民を心服させることが出来るだろうか。〜中略〜諸君の将来は君たち自身の掌中にあり、諸君は多くの兵を無駄で醜い死に投じるか、或いは又、名誉ある平和を採るか、その何れかを選び得るのである』という軍部を信じないようにさせようとするものである。
終戦を迎えたとき中学2年生だった吉田仁氏(東庄町史より引用)の話を以下に記して戦争が「起こしてはいけないもの」であるころを再確認してみてください。高校生が人間魚雷の魚雷艇を生産していたそうです。

『1足の地下足袋(配給)を1年間も使用しなければならなくて、踵のゴムがすりへって穴があき、小石が入ってきたりしたが、それでも我慢しなければならなかった。制服なども。もう満足なものは有りよう筈は無く、常に防空頭巾を持って登校した。〜中略〜授業は毎日軍事教練があり、配属将校も増員され、その指導は厳しかった。2年生になると銃が与えられ、背嚢、銃剣を装備しての戦闘訓練で、私たちにとっては緊張と苦痛の時間であった。いわゆる軍隊教育のビンタを頂戴しないものはなかった。戦雲が急を告げるようになって、軍事教官は、ABCを習って何になる。敵が上陸してきたら竹槍を持って突撃だ、と言った。英語の教師は、戦争に勝つには敵を知ることが大事だといった状態で、教師間も不統一だった。
中学3年生以上は軍需工場に動員され、授業はなかった、体の弱い者やツベルクリンの陽転者は近くの工場へ動員された。4年生以上のうちには、京浜方面の工場へ動員されていったものもあった。
銚子には旧松岸に俗称「ヨット工場」があり、銚子商業、銚子中学、匝瑳中学の生徒が動員されて軍用品の生産に従事した。銚子商業生は、人間魚雷と言われた魚雷艇の生産に、銚子中学生は、輸送船、斗南丸の建造をさせられた、従って家から工場へと通う毎日であった。』

当時の東庄町の橘地区の回覧板の内容を記します。(?)は現在の文字ではない箇所。二度とこのような回覧板が出回らないように。

回覧板     橘村
大詔奉戴日を迎へて!!

意義ある大詔奉戴日(?)迎へ支那事変第5周年(?)偲び
1、毎戸国旗を掲揚いたしませう。
1、鎮守社に皇軍乃必勝(?)皇軍将士乃武運長久(?)祈願いたしませう。
1、第1線将士乃心を心として貯蓄と公債消化(?)邁進いたしませう。
1、意義深(?)日(?)行わるゝ村会議員選挙(?)あたり棄権と違反乃絶無を期しませう。
1、迂闊に國乃秘密(?)洩したり敵の宣伝に迷わされぬやう注意しませう。

最後にレクイエムというHPをご紹介します。
地域の戦争体験などでは無く「遺言」ばかりのページです。
何も言葉がなくなります。http://www.arkworld.co.jp/requiem/message/requiem.html