きらっせネット歴史館



旭の弘文天皇妃耳面刀自(みみものとじ)媛漂着伝説

昔々、約1300年も前、大津の都の戦いに敗れた天皇の妃が、海路逃れて現野栄町に漂着、そして生涯を閉じ、現在陵墓が旭市大塚原古墳らしいという伝説。弘文天皇とは、天智天皇の子の大友皇子のことで明治3年までは正式には天皇としては認められていなかった人物。叔父の大海人皇子(のちの天武天皇)と行為を争った世に言う壬申の乱に敗れ、大津市で自害したことが日本書紀にはある。しかし一説によると自害せずに君津に逃れ、そこの古墳が天皇陵という説もあり、耳面刀自媛は藤原鎌足の娘で中臣氏の出生地と伝えられている鹿島へ逃げる途中なのか、または天皇を追ってこちらへきたのか定かではないがそう言い伝えられている。資料は乏しく「旭の風土と文化」にも真実性に疑問を持つような記述がされている。
どうも疑問に思われる点は従者18名とともに大津の都から来たらしいが漂着したのは現野栄町の野手海岸らしい。従者18人で余程の難所をくぐりぬけてこなければ漂着できないだろう点、仮に陸路を経由した場合でも東国を大海人皇子が抑えていたのでなかなか突破は難しいだろうし、現在と違い「徒歩」での逃避行は現実的ではないと思う。
野栄町の内裏塚に葬むられたという話で、その400年後第14代中臣氏が旭市大塚原に改葬したらしい。現在旭市には妃を祀る「内裏神社」伝妃の陵墓「大塚原古墳」がある。
最大の証拠らしい状況は大塚原古墳で明治24年人骨と石版に「連金子英勝(むらじかねのこあかつ)」と刻まれているのが発見された。この人は壬申の乱の首謀者として処刑されたといわれている中臣連金の子供の英勝とわかった。このことが妃を奉じて野栄方面まで流浪してきたことを事実かのように思わせている。(参考資料旭の風土と文化)