明治の文豪。

慶応4年9月播州竜野藩の竜野丸が銚子沖で難破しました。この舟に乗っていた国木田専八は、銚子に滞在し、新生村(現銚子市新生町)の淡路善太郎の妹まんと知り合い、明治4年7月15日(戸籍により)、2人の間に生まれたのが独歩でした。本名は哲夫。幼、少年期を、山口県・岩国で過ごした。中学二年で中退の後、上京し、東京専門学校(現・早大)に入学、英語を学ぶ。在学中に、植村正久から洗礼を受け、キリスト教徒となる。、「青年思海」「女学雑誌」に投稿。学校改革を求めるストライキに関係して、東京専門学校中退。 父親の退職から家計を支えるために大分県・佐伯市の鶴谷学館・教頭として赴任するなど各地を転々としたあと再び上京する。日清戦争勃発とともに国民新聞にはいり、従軍記者として軍艦・千代田に乗り組んで「愛弟通信」を連載、注目される。明治28年、退職し、「国民之友」や「近事画報」の編集をしながら創作を続ける。このころ、佐々城信子と知りあい、周囲の反対を押しきって結婚するが、すぐに離婚。明治30年、処女小説『源叔父』を発表。明治31年、榎本治と結婚。明治34年文集「武蔵野」で認められる。初期の抒情的ロマン主義から、後年、自然主義へと進む。性格描写に優れ、自由への欲求を強く表し、民衆の立場から社会批判の方向をもった独自の作風を築いた。一般に「自然主義の先駆者」と評され、その文学史的位置はきわめて大きい。代表作には明治34年『武蔵野』『忘れ得ぬ人々』明治38年『独歩集』『第二独歩集39年『運命』などがある。脚光を浴びたのは晩年で、明治38年『独歩集』『運命』を刊行し、自然主義の文壇に迎え入れられてからだった。独歩は明治二十六年から同三十年まで日記をしたためていたが、これが独歩の死後、刊行された『欺かれるの記』である。明治41年、肺結核のため37歳で逝去。墓地は青山墓地内にある
銚子市海鹿島町にある独歩の碑は独歩27歳のときの詩集「独歩吟」の中の一節で、市民の有志によって寄付、建立されました。。

ーーーーーなつかしき わが故郷は何処ぞやーーーーー
ーーーーー彼処にわれは 山林の児なりきーーーーー